第8回 甦生の一手――信頼が繋いだ再建の道

年末の銀座、老舗おでん屋「お多幸」の2階座敷。
そこは、かつて放送文化事業の“集金司令室”となった場所である。
会社を取り巻く資金難、貸し倒れ総額2000万円――
その中で、社員たちは日々、得意先からの入金を受け取り、
迫る放送局の集金人との“鉢合わせ”を避けるため、時間とルートをすれ違わせるように動いていた。
だが、私たちは単に逃げていたのではない。

そこから再建の一手を打ち始めていた。

昭和29年、放送文化事業は創業の地・銀座西六丁目を離れ、
港区佐久間町1丁目の和田ビルへと移転。
それは単なる引っ越しではなく、組織を根本から立て直す覚悟の表れだった。
そんな時、救いの手を差し伸べてくれたのが、
日頃から信頼関係を築いてきた放送局だった。
中でも文化放送は、当社の広告扱い高が電通に次ぐ2番手であったことから、
「しばらく他局の支払いを優先して構わない」との支払い猶予を認めてくれた。
日本テレビやラジオ東京(TBS)など、他局の理解と支援も相まって、
会社は長期返済計画を策定し、再起に向けて一歩ずつ踏み出していくことができた。
再建の鍵を握ったのは、新たなスポンサーの獲得だった。
営業部員たちは、東京の町を駆け巡り、地道に訪問を重ね、
「東邦生命」「日本美容医学研究所(十仁病院)」「日本電建」「ビオフェルミン製薬」など、
着実にスポンサー契約を結んでいった。

「全額返済してやる。――それだけを考えて、私は動いた。」
佐伯元会長のこの言葉は、危機の中で会社を支え続けた強い意志そのものである。

 

トリビア:おでん屋「お多幸」が支えた再建戦略

  • 放送文化事業はおでん屋「お多幸」の2階座敷を仮事務所代わりに使い、集金調整を行っていた。
  • 各社員に“帰社時間指示メモ”が配られ、収支動線の交錯を防ぐ独自の体制が敷かれていた。
  • この非常時の“戦略的退避”が、のちの再建に大きく寄与したとされる。

次回予告|第9回「資金を繋ぐ、信用の技術」
再建の陰には、もう一つの物語があった――
広告代理店が果たす“金融機関”としての役割。
新規スポンサーとの交渉、マージンと支払い条件の調整、そして入金サイクルの管理。

次回は、元経理担当・三井社員の奮闘を通して「信用経営」の原点を描きます。