第6回 幻影の繁栄――新興財団と“広告の黄金時代”
昭和20年代後半――。
焼け跡から立ち上がった日本は、朝鮮戦争による特需を追い風に、急速な経済復興の途上にあった。
東京の街には闇市の名残が消え、新しい看板とともに「広告」が都市の景観を彩り始めていた。
広告とは、復興の象徴であり、欲望の鼓動であった。
しかし、その繁栄の舞台裏には、戦後の“新興財団”たちの存在があった。
「日本殖産経済界」「産業経済研究所」「日本観業経済会」――
いずれも戦後の闇金融や資産統制の混乱期に台頭し、派手な広告戦略で急成長を遂げた企業群である。
彼らは、新聞広告からラジオの提供番組、街頭サインに至るまで、あらゆるメディアに巨額を投じていた。
そのような時代、我が社・放送文化事業もまた彼らの広告需要に応えるべく、多くの案件を受け持った。
広告主としての彼らは、決断が早く、金払いも良く、我が社にとっては創業期の屋台骨を支える存在だった。
あの時代、一番勢いがあったのは、こうした新興財団だったのだ。
だが、その足元は脆く、危うかった。
華々しい表向きとは裏腹に、多くは実態不透明な事業や、不安定な資金繰りに支えられていた。
そして、やがて――戦前の有力企業が経済の表舞台に返り咲きはじめると、
新興財団の“熱狂”は、急速に冷めていった。
「東京デパート」「大進産業」――
我が社の主要クライアントでもあったこれらの財団が、次々と倒産の憂き目に遭う。
まだ創業5年に満たなかった私たちは、予期せぬ連鎖に巻き込まれ、
ある日突然、巨額の貸し倒れという現実に直面することとなったのだった。
トリビア:広告バブルの象徴たち
- 「日本観業界財界」は毎週新聞にカラー広告を出稿していたことで有名だった。
- 当時の新興財団は自社商品より「信用」そのものを売っていたといわれる。
- 一部財団は、有名歌手や俳優をCMに起用し、業界初の「芸能広告戦略」を展開した。
次回予告|第7回「2000万円の逆風」
年の暮れ、集金人が会社を取り囲んだ――。
2000万円を超える貸し倒れに、放送文化事業はどう立ち向かったのか。
次回は、社員が銀座「お多幸」に籠り、資金繰りの指令を出した「決断と再起」の物語。