「幻の中央放送」――第3局開局をめぐるもう一つの物語
昭和20年代末、日本の民間放送は大きな転機を迎えていた。
新聞社を母体とした「ラジオ東京(現・TBSラジオ)」と、財団法人を前身とする「日本文化放送協会(現・文化放送)」に続く、 **東京地区“第3の声”**を求める気運が静かに高まりつつあった。
その動きをいち早く察知したのが、私たち放送文化事業であった。
創業間もない私たちにとって、これは単なる放送局誕生の話ではなかった。
むしろ――代理店として、業界における存在を確かなものにする、「生き残り」をかけた一大プロジェクトであったのだ。
出発にあたり、まず私たちが考えたのは、有能なブレーンを得ること。
その結果、政治・財界に人脈を持つグループが集結し、発起人代表として衆議院議員・船田中氏を立て、「中央放送」の名で開局申請がなされることとなる。この「中央放送」には、我が社も深く関わっていた。
新局開局の暁には、放送文化事業が専属広告代理店となる構想で動いていたのである。
その象徴として、船田氏を会長に、実弟の藤枝泉介氏(のちの防衛庁長官)を社長に据えるという陣容が整えられていった。
だが、第3局をめぐる動きは一枚岩ではなかった。
「中央放送」のほかにも、通産大臣経験者の稲垣平太郎氏を代表とする「ラジオ経済」など、複数の申請が郵政省へ持ち込まれ、事態は複雑化していった。
この混迷を打開するべく、当時日経連専務理事であった鹿内信隆氏に話が持ち込まれる。
結果、競願申請は一本化され、昭和29年7月15日――東京第3のラジオ局として「ニッポン放送」が開局を果たす。
だが、その時、すでに事態は大きく動いていた。
中央放送のグループの中心人物たちは、新たに誕生したニッポン放送の中核を担うことになる。
開局時の役員名簿には、稲垣氏(会長)、植村甲午郎氏(社長)、鹿内氏(専務)、
そして船田中氏(早田役)らの名が並ぶ――そこに、佐伯元会長を除くほぼ全ての中央放送関係者が名を連ねていたのだ。
こうして、船田・藤枝両氏は放送文化事業を退職し、新たな船へと乗り込んでいった。
残された私たちにとっては、まさに歴史の岐路。
この出来事は、その後の会社の進むべき道を決定づけたとも言える。
そして、今――
この出来事を知る者も、少なくなった。
しかし、「ラジオ第3局」の熱き挑戦の記憶は、私たち放送文化事業の血潮の中に、確かに息づいている。
トリビア:幻に終わった「中央放送」
- 「中央放送」は当初、放送文化事業を専属代理店とする計画で進行していた。
- 開局後の「ニッポン放送」は、新聞・経済界の主導によって再構成された実質的な別組織だった。
- 船田氏・藤枝氏の離脱により、放送文化事業は体制を一から立て直す必要に迫られた。
次回につづく。