第3回「創業者 佐伯元会長が語る ― 創立の始まり」
――昭和の激動を生き抜き、ひとつの志が芽吹いた瞬間があった。
敗戦から復興へと向かう時代のうねりの中で、放送文化事業は“必然”として、その胎動を始めていた――。
終戦直後。すべてが統制され、自由な商いすら困難な世の中。当時、高島屋に勤めていた佐伯元会長は、衣料品の統制管理を担う「日本衣料統制株式会社」へと転籍した。
国家による統制経済の真っ只中であった。
しかし、終戦を境にその「統制会社」は解体され、代わって誕生したのが商品ごとの「協同組合連合会」。
その事務局長として奔走する中、ある話が持ち込まれた。
――「広告代理店を立ち上げようとしている者たちがいる。代表を引き受けてもらえないか」――
旧知の部下からの申し出だった。彼らの多くは、戦時中、海軍の情報部門に籍を置いた人物たち。知識も人脈も一流。
だが、何度も顔を突き合わせ話すうちに、佐伯氏の胸に去来するものがあった。
「立派な人たちだった。だが、志はあっても、共に歩むには何かが違った。」
すべてを断った。そして、決断する――。
「ならば自分が一切の責任をもって始めよう」
それは無謀とも思える選択だった。広告の経験はない。資本も乏しい。頼れるのは、自らの覚悟と行動力のみ。
だが、だからこそ、志は純粋であった。誰の色にも染まらぬ、新たな広告文化を創る。
放送文化事業の創立は、いわば“覚悟”の出発点だった。
今、振り返れば、それは“個人の決断”を超え、“時代”が動いた瞬間だったのかもしれない。
混沌の世に、新たな文化を――。佐伯元会長の静かな一歩が、未来へとつながる道を拓いたのである。
昭和20年代トリビア
- 終戦直後の銀座にはまだ舗装されていない道が多く、砂埃が舞う商店街だった。
- 統制経済下では、広告表現すらも「贅沢」とされ、企業宣伝はほとんど行われていなかった。
- 佐伯元会長が使っていた初代の電話は「手回し式」――交換手を通してつなぐ時代だった。
だが――創業時、会社には「社長」がいなかった。
若き佐伯元会長は、あえて「常務取締役」を名乗り、実をとる道を選んだ。
次回は、その肩書に込められた戦略と信念をひも解く、「社長なき船出」の物語。