1952年――放送広告の夜明けと、変わりゆく「伝え方」

昭和27年――。
敗戦から7年、日本はついに形式的な主権を回復した。
この年4月、サンフランシスコ講和条約の発効により、連合国軍による占領が終焉を迎える。
戦争の爪痕がいまだ生々しく残るなか、日本は独立国家としての再出発を果たしたのである。
その再出発を後押ししたのが、昭和25年に勃発した朝鮮戦争であった。                          突如として訪れた「特需」――。
これが日本経済を押し上げ、国土にも、そして人々の心にも再び光が射し込む。
だが、復興の炎は経済だけにとどまらなかった。
情報の流れ、伝える手段、そして広告の姿――。
すべてが、新たな時代へと向かって舵を切り始めていた。
昭和26年から27年にかけて、名古屋の「中部日本放送」、大阪の「新日本放送」、東京の「ラジオ東京」――
相次いで民間ラジオ局が誕生する。
日本で初めて、国営放送とは異なる“民の声”が電波に乗った瞬間である。
そしてこの「声のメディア」は、情報をより深く、より広く伝える手段として、急速に社会を変えていった。
新聞一強の時代が終わりを告げようとしていた。
広告の在り方もまた、「作れば売れる」という売り手本位の時代から、
「買い手」、すなわち生活者の声に耳を傾ける時代へと変わりつつあった。
――新しい価値観、新しいメディア、新しい広告の姿。
その全てが交錯し、激しく揺れ動くこの時代。
私たち放送文化事業は、その只中で、確かな使命を胸に、歩み出した。
「伝える」だけでは、足りない。
人の心に「響く」広告とは何か――。
創業者たちは模索しながら、自らの役割を手探りで築いていったのである。

黎明期トリビア

  • 日本初のラジオCMは「服部時計店」の時報であった
  • テレビ本放送はまだ始まっておらず、白黒テレビは17万円(公務員初任給の100倍)
  • 新聞広告は夕刊、特に芸能や事件欄に集中していた

――激変の時代、未知の分野、手探りの毎日。
だが、創業メンバーたちには確かにあった。「やり抜く力」という名の信念が。

次回、「創立の経緯」――その原点をたどる物語へ。